● ミャンマー民主化闘争に対する、韓国ハンギョレ誌記者の、意欲的最新報告
韓国週刊誌 ハンギョレ21 10月5日(金) 675号
ミャンマーは、もはや後戻り出来ない
内部運動家たちを通して覗ったミャンマー事態・・・遠い過去と違って、緻密な準備と亡命団体の支援のなかで、爆発した僧侶の示威
■ タイ-ミャンマー国境地帯=チョン・ムンテ アジアネットワークチーム長
はっきりしなかった。期待がまるで無くはないのだが、だからと言って、違って何か緊張感があったと言うこともなくて。
“3日の間、秘密連絡を通じてミャンマー全域の僧侶たちを組織しておいて、去る9月9日、われわれは軍事政府に、17日を最終日として定め、四つの条件を要求した。万一軍人らが、わが要求を無視すれば、18日から全面的抗争にぶつかるはずだ”

写真説明1 重ね重ねに築かれた、巨大な憤怒が喊声となって街 路に押し寄せた。終わりなく続いた赤い波頭は、軍部独裁の弾圧に打ち勝つミャ ンマー民衆の血筋だ。去る9月24日、ミャンマー最大都市・ラングーンで繰り
広げられた反政府集会には、10万名を超える人波が押し寄せた。
どうなのかはっきりしないが、急にクラッとした
石油の値段の引き上げを撤回せよと、9月5日ポコトで示威を始めた僧侶らが軍人から暴行を受けた後である、去る9月16日、ミャンマー僧侶同盟(All
Burma Monks League)のマンダレー代表である、ケメインダ師と通話した内容がそうだったと言う話だ。
“最初に、ポコトの蛮行を謝罪し、二つ目に、油の値下げ、三つ目にアウンサンスーチを含む全ての政治犯達を釈放、四つ目に社会復旧のために野党と対話せよ”
その方(ケメインダ師)が掲げた条件なども、さほど新しいものではなかった。どうせ、1962年から、ミャンマーを思い通りにしてきた軍人と言うものが、突然僧侶らの前に、頭を下げて要求条件を聞き入れることもないはずだ。
これは、この間のミャンマー僧侶らに対する愛憎の理由であった。ずいぶん古い話だが,過ぎた20年近くミャンマー民族解放・民主革命戦線を追ってきた記者たちの間では、僧侶たちを、あまり信頼しない雰囲気があったのが事実だ。初めから、そうであったというのは、期待感が失望感に変わった場合だと見るのが正しい。
1988年 民衆抗争が、軍人達の流血の鎮圧で終わった後、ミャンマー社会内部では、その軍人たちに立ち向かう程の大衆組織が、まったく無い実情。学生運動組織は、伝説的な運動がミンコナインを初めとする主軸たちが監禁された状態で、やっと地下連絡を通じて“安否”だけ受け渡しする状態であって、ミヤンマー国境にのがれ出て、武装闘争をして来たミャンマー学生民主戦線(ABSDF)も、すでに旗幟だけ、やっと掴んでいる状態だ。そのうえに、政治組織と言うアウンサン・スーチーで象徴される、民族民主同盟(NLD),は、政治力と闘争力の不在で、引き続きこん睡状態に陥っている体たらく。
仏教社会の中のミャンマー民衆たちは、軍人たちに立ち向かうぐらいの、全国的組織を備えた唯一の集団である僧侶たちを、“最後の希望”と、見なす他なかった。しかしこの期待が、過ぐる20年の間満たされない事になじんで、僧侶たちに対する尊敬と不信が共存してきたのは事実だ。言わば僧侶たちに、ねじれた政治を解きなさいと、叱りつける変な現状が、内外に存在したわけだ。

写真説明 2 ラングーン都心で、去る9月27日 自動小銃で武装 した軍兵力が示威隊鎮圧作戦にでる準備をしている。(写真・ヨンハップ/マンダ
レーガゼット)
僧侶たちが掲げた最後通牒の日である、9月17日、今回は,ミャンマー僧侶同盟(ABMU)代表人として、活動する師とつながった。軍人政府からどんな対応があるのかの質問に“公式的な反応はなくて、政府当局者らが寺を訪ねてきて、古参の師たちに贈り物をしながら示威の自制を要請した。”
続いて師は、“通報した通り、今日0時までに反応がなければ、明日から示威に突入する”と強調した。示威計画と参加規模を問う質問に、“それは明らかにすることは出来ない。はっきりしていることは、最小六つの都市だ。我々は仏陀の教えに従って道徳的な方法を選ぶつもりだ。”と 少し抽象的に説明した。また、どうなのかはっきりしなかった.
そして、一日後の9月18日、ラングーンとマンダレーに溢れ出てきた僧侶数が二万名を通り越したと言うニュースを掴んで、気が急にクラッとした。再び急いでその師たちを探したが、もう通信が難しい状態だった。9月24日からは、はなから耳つんぼに変わった。
降伏か?墓を掘るのか?
ミャンマー僧侶同盟と言う名前の下、秘密連絡を通して,伝統的な闘争経歴を秘めたミャンマー青年僧侶同盟(ABYMU), ラングーンを中心とするラングーン青年僧侶同盟(YMUR),
マンダレーを足場と見なすミャンマー連邦僧侶同盟(ABFMU)、そして最近組織した青年学生僧侶組織(YSMO)が、今回示威を主導していたが、全ての交信が途絶された。
僧侶達と通信が不可能な事態で、学生運動家たちを訪ねた。1988年から不法監禁されて来て2004年釈放された後、2005年に続ずいて、再び去る8月21日の示威で三回目、監禁されたミンコナインとともに“88世代学生”と言う組織を立てた、テイ・チウェ(42)と9月23日連絡がついた。
この88世代学生たちは、8月21日、石油価格引き上げ反対を叫んでラングーンで示威を広げ、9月5日ポトクの僧侶示威を間接的に推道した組織だ。“僧侶たちが市民の参加を要求したし、わが組織だけではなく、全ての学生たちがその要請を受け入れる準備が出来ていた。我々は今回、示威が僧侶たちだけの役割(働き)ではなく、全ての市民と国家全体の役割だと信ずるためである。”

写真説明 3 日本人カメラ記者、長井健司が、ミャンマー軍人の銃にあ
たり、倒れた直後、鎮圧部隊の暴力を避けて逃げる示威隊に向かって、カメラを
突き出している。(写真 ヨンハップ/マンダレーガゼット)
また、他の学生運動家である、ミョ・ナウン(42)は、“もし、軍人らが武力で鎮圧を試みたなら、われわれは、更に大きな力と方法で向き合う準備ができている。今回ぐらいは、決してやすやすと崩れないようだ。今回の機会を最後と考える。”と、強い意志を見せた。14~15年間監獄生活をした二人の学生運動家は、“学生たちが”恐怖に落ちていると言うのは嘘であるラングーンで学生たちに会ってみなさい。学生たちは更にこれ以上、何も怖がらない“といった。二人はまた、”すでに軍人たちは、前から学生たちを爆弾として感じて、その爆弾は、すでに爆発の時点に達っした“と現地の示威状況を説明した。
亡命団体の驚くべき“通信革命”
こんな状況の中で、すでに僧侶を主軸とする示威隊規模が10万名を通り越し、9月26日、軍人たちの発砲で10余名の死亡者が発生した。9月28日金曜。日午前0時現在まで10日間、広がった示威だけについてみても、今回の状況はミャンマー専門家や、外信記者らが予測した線を、ずっと遥かに飛び越えた。計算だ。
長い間ミャンマーを取材してきたポチルリントノの言葉のように“すでに後戻りできない線を越えた”と見る見解などが支配的だ。仏教社会であるミャンマーで、僧侶たちが路上に走って出て、軍人たちが、その僧侶たちを市民が見る前で殺害したという事実は、もはや妥協点を探すことが出来無いと言う意味だ。
今回、示威を追ってみると、最初から軍人たちは選択の幅が全くなかった。もっぱら極端な、二股の道、一つは僧侶たちの要求条件を聞き入れて他の一つは僧侶示威隊を潰してしまうことであって、前者は降伏宣言をする格好となり、後者は仏教社会で自ら進んで墓を掘る格好となるのだ。
実際に、今回の僧侶の示威は、制限的闘争に終わった“1990年ボイコット”と相当な差別性を秘めている。当時、民族民主同盟が勝利した総選挙の結果を、軍人たちが覆そうと、僧侶たちが軍人たちのお布施を拒否したと言うその過程で、指導部が全て逮捕された後、ウーイエワダ師の様な人々が獄死することもしたが、大衆宣伝とか大衆接触と言う面では、今回の示威と全く違った。
いわば、“1990年ボイコット”は、今回のように、僧侶たちが大規模示威を繰り広げて、市民たちと接触するということが出来ない欠点を抱かえていた。事実はそのボイコットで数多い僧侶らが逮捕、拘禁、投獄、殺害されたが、自身の眼前で繰り広げられないことに就いて、市民たちはあまり現実感を、感じることが出来なかったというわけだ。
また一つは、今回の僧侶たちの示威は、規模の面だけではなく、組織や企画の段階から大変緻密な準備をしてきて、その背景にはミャンマー亡命団体の支援があったと言う事実が、最近まで僧侶たちの示威と全く違う点で明らかになっている。
実際に、今回の僧侶らの示威や、先立って88世代学生らが主導した8月21日示威は、あらゆるミャンマー内外の政治団体や革命組織が、直・間接的に深く介入した痕跡が見える。特にミャンマー~タイ国境側で活動する亡命政治団体が国際社会とミャンマー内部を結ぶ橋の役割をしたという事実が明らかになった。
ミャンマー学生民主戦線{ABSDF}、ミャンマー女性同盟{BWU},民衆防衛戦線{PDF},を始めとする七つの政治団体の連合体である、ミャンマー民主フォーラム(FDB)の書記長、ナイオンは“ミャンマーの内部の組織が出来ない対言論の関係と政治戦線を我々の側で換わってしている”と、今回の示威の状況に関与していることを明らかにした。

写真説明 4 9月27日ソウル、ミャンマー大使館の前で開かれた集会
で、一人の子供が、平和的示威を暴力鎮圧しないことを迫るピケットをもってい
る。
ミャンマー民主フォーラムの、構成団体のなかの一つである、民主開発ネットワーク(NDD)議長であるオマルは、“ミャンマー内部の組織に無線電話機とコンピュータの如き装備を提供した。”と言う事実を隠さなかった。ミャンマー学生民主戦線事務総長ソニのような人は、“伝統的にミャンマー学生民主戦線は、ミャンマー内部の学生運動家たちと連携してきながら、学生組織の再建のために努めてきた。こんな活動が今回示威と無関係ではない。”と明かした。
参考に、付け足そうとすれば、示威が起こってから、ミャンマー民主フォーラムと、ミャンマー学生民主戦線を初めとする亡命政治団体などは、ほとんどリアルタイムの電子メールを通じて、内部ニュースと写真を私に送ってきている。それらから、電子メールを受けている若干の記者たちは、各自、1988年の状況と比較して、{通信革命}に驚いている実情だ。しかし本来、通信手段よりはむしろ、徹底して遮断された軍人独裁統治の社会を、開いて入っていく革命勢力の組織力が、もっと目立つ局面がないかと思う。
なにはともあれ、こんな状況のなかでミャンマー~タイ国境側の取材をしてきたオンナイン(〔BBC〕ラヂオ特派員)は、“今回の示威が、この間のミャンマー内部の組織と国際社会の連帯を総決算する、ひと勝負の勝敗どころとなるように思う。”し、どんな形態であろうと“結果が出てくる戦い”になるものと見通した。一方、非常に長い間待った、即ちその僧侶達の闘争の消息にミャンマー~タイ国境戦線も大きく鼓舞されている雰囲気だ。
ミャンマー~タイ国境戦線も鼓舞される雰囲気
1948年から、ミャンマー政府に対決する解放闘争をひろげて来たカレン民族連合(KNU)の事務総長 マンシャルラパンは、“ミャンマー全体の為に闘争する僧侶たちを尊敬し、カレンは全ての団体と連帯して、可能なあらゆる支援をする計画”だと言い、平和闘争と同時に、国境戦線の武装闘争を強調した。
“現在国境戦線では、カレン民族解放軍(KNLA)がミャンマー政府軍を攻撃している状況なので、僧侶らの闘争に直・間接的な助けになるだろうと信ずる。”民族民主同盟解放軍(NLD_LA)・議長であるウーティンオンは、“民族民主同盟は、僧侶たちを支援するが、その僧侶たちが大変自慢だ。”と、浮き浮きした心を隠す事が出来なかった。
かれは、“国連を初めとした国際社会が、即刻出てこなければならない。すでに僧侶たちを殺害した、その軍人たちの銃撃行為をとめるように出来るのは、国際社会の圧力だけだ。これは、最後の機会だ。”と付け加えた。
そうであるかと思えば、シンモンジュ党(NMSP)事務総長、ナイハンタルは、“市民に代わったその僧侶たちを尊敬して、モンジュ側でも、可能なあらゆる方法を動員して、僧侶たちと市民の示威を支援する計画だ。すでに市民たちの忍耐は限界を超えた。今回の示威は、断じて止むものではない。”と強調した。
国境の民族解放・民主革命団体らは、これほどに、それぞれ、今回の僧侶示威を、軍事独裁打倒の総力闘争の契機だと、見做す意思を明らかにした。
とにかく、1906年青年仏者連合(YMBA)として出発して、大英帝国殖民闘争の旗印を掲げた、その僧侶たちの後裔は、すでに新しいミャンマーの歴史を目指し、一歩一歩前進している。軍人と僧侶、その二つの関係が普通の関係でない状況の中で、ミャンマーの歴史はもう一度、民衆たちに苦しい闘争を命令しているようだ。(訳 柴野貞夫 2007・10・11)
追記 上記の4写真は、全てハンギョレ21のホームページより転用させていただきました。
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